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渡邊敏和(わたなべ としかず)
昭和31年、山形県東置賜郡川西町上小松生まれ。山形県立長井工業
高校卒業。平成17、18年、川西町獅子頭展実行委員長。 置賜民俗
学会理事。
はじめに
令和7年(2025)11月に、鶴岡市山王町で古書店「阿部久書店」が隔月で発行する目録に、米沢九代藩主上杉鷹山公の藩政改革に貢献した莅戸善政(太華源鴨士雲・1735~1803)が著わした「好古堂随筆巻之」を含む「仰欽録 全」と題する書本が掲載され、それを購入した。この書本には羽州宮内本町、山口勘十蔵書の印がある。この書本は一般的な文献では見られないもので、市立米沢図書館に照会したが、初めて見るものだということだった。
その書本の中に、米沢藩士静田彦兵衛のことが書かれてあるのを見つけた。令和5年の米沢日報元旦号(新聞版)で、同社長の成澤礼夫氏が「花園天皇が静田守家に与えた勅命神符の謎」という静田氏に関する研究があるが、その中で触れられている静田彦兵衛と符合したことから、特にその部分を拾い上げて内容の調査をおこなった次第である。
「仰欽録」の静田彦兵衛に係る部分は、米沢古文書研究会(高橋敬一会長)に解読して頂いたことを触れておく。
一、静田彦兵衛に関する文書
「仰欽録」を4分3くらい読み進んだところに、静田彦兵衛に関する文章が書かれてあった。それは次のようなものである。
「一、上生院様御代御使番を勤し静田彦兵衛か忠実律儀の人なりしか、御問聞の時しばしば諌言を申上たり、ある時又数ヶ条の重き事とも申上、強而之問答し奉りたり、其節、下ニ白小袖を着たりし故、所存を御尋有しニ、此度は重き事共申立候故、何れの道ニも覚悟も相極め罷出し故なり、と御答申立たり、御上御在府のとき病死せしか、其段を聞召れ甚惜ませ給ひ、彦兵衛は頼母しき士なり、彼か言し事ともは思ひ当る事のみにて国の用ニ立へき者なるか、惜きものを失ひし、とて大きニ愁させられ、其日は御膳も御進なかりしとなり、御帰国の上、彦兵衛か忠誠を賞せられ、弟三人有りしニ皆新知を賜りたる、今の静田与左衛門・同権左衛門か先祖なり、一人は躄ニてありし故、相応の役なりとて、御金蔵の番人ニ被仰付たり、是は静田紋蔵か先祖なり、静田与三郎か家は本家なり、扨また上生院様御年二十七ニて御薨去(こうきょ)なれは、御年若のときなるニ、恐なからも誠難有思召なり、惜哉御世の早かりし事そ」
現代的に読み解いてみると、
上生院様(米沢三代藩主上杉綱勝)治世の時代、静田彦兵衛は、御使番として勤務し、忠実律儀の人であった。その在任中は、しばしば殿様に諌言(厳しく注意すること)したり、ある時には数ヶ条の重要な事を述べて問いただしたりした。その時は着物の下に白小袖(死装束)を着て、その考えを尋ね意見を述べたが、重大な事を申し述べる時は切腹覚悟の上で御前に出てきたと話した。殿様が江戸滞在中のときに彦兵衛は病死したので、その事を聞いて、殿様は甚だ惜まれたという。彦兵衛は頼もしい武士であり、彼が言うことは思い当る事ばかりで、国(米沢藩)の用に立つべき者なので 、惜しい者を失ったと、とても大きく愁い、その日は食事も進まなかった。
殿様が米沢に帰国した時は、彦兵衛の忠誠を褒めて、彦兵衛に弟が3人いたので、皆に新たな知行を与えた。現在の静田与左衛門(守興と子の守通)・同権左衛門(守応、子の守義、孫、守富)の先祖である。一人は躄(足の不自由な人)であるので、相応の役として、御金蔵の番人(御土蔵番が彦兵衛守次の三男久右衛門盛房と子の又兵衛)に仰せつけられた。これは静田紋蔵の先祖である。静田与三郎(権左衛門守応の弟彦兵衛守英で本家を継ぐ)の家が本家である。さてまた、上生院様(綱勝)は27歳で死去され、惜しい事にご生涯が短かった。
まず、ここで上生院とあるが、上杉家御年譜から殿様の御使番となったのは、静田彦兵衛守次であることが判明している。その御使番在任時期は1628~33年であるので、上生院の時代ではなく、その父である上杉定勝の治世時代(1623~45)のことということができる。しかも、殿様との関わりを含む藩上層部の情報が書かれているから、藩士の中でも高位な人物であるように思われる。
年代に誤りがあるということは、米沢藩の公式な文書ということではなく、米沢藩の藩士が個人的に、書き記したものではないかと推定できる。
また、この「仰欽録」が書かれた年代であるが、本文中に、「今の静田与左衛門・同権左衛門か先祖なり」とあり、「今の」とある与左衛門の系譜を調べると、享保21年(1736)4月に家督相続、寛政11年(1799)5月隠居している。また権左衛門は、安永6年(1777)12月に家督相続し、文政6年(1823)10月に隠居している。
すると、この「仰欽録」が書かれた時代は、米沢藩第9代藩主上杉鷹山(1751生〜1822没)であり、莅戸善政(1735生~1803没)と重なることがわかる。ここから、この「仰欽録」が「好古堂随筆巻之」を書き表した莅戸善政による文章ではないかという想像が働いてくるのである。静田彦兵衛守次が定勝ではなく、綱勝に仕えたと誤って記述されても、150年以上も前の話となれば合点がいく。
もう一つ大事な点は、静田彦兵衛守次が定勝に対して、切腹覚悟で進言しているという中身である。
1628~33年頃の米沢藩の歴史を振り返ると、初代上杉景勝が1623年に死去し、1604年生まれの定勝(19歳)が米沢藩第2代藩主となった。景勝の右腕だった直江兼続も既に1620年に死去し、米沢藩は40年ほど続いた景勝・兼続体制からの転換が図られ、与板組幹部は藩政から遠ざけられて集団指導体制に移行していった時期にあたる。
さらに1629年1月には、米沢藩士の甘糟一族ら50人余りがキリシタンということで北山原などで処刑されている。景勝は、「当領内には一人のキリシタンも御座無く候」と幕府に報告していたが、さすがに若い藩主定勝は、このような対応はできなかった。そして、この甘糟一族の処刑が行われてしまう。
御使番となった静田彦兵衛守次が、藩主定勝に何を話したのか記録がなく不明であるが、在任時期の1628~33年は、このように江戸幕府からのキリシタン弾圧への対応や、米沢藩内の権力闘争とも言える厳しい政治状況があったことから、その対応に守次が何らかの進言をおこなったことは想像に難くない。
御使番は、戦国時代には戦場での伝令や敵軍への使者などを務める役職だったが、戦のない江戸時代でも幕府や諸藩で使われたとされる。
二、上杉家家臣の静田氏
「上杉家御年譜」二十四 諸士略系譜(2)に記される静田氏の家系図を見る。
(写真右=「上杉家御年譜」の静田氏、米沢温故会発行)
上杉家初代の静田彦兵衛守貞の略歴には、
「本国越後(現、新潟県)改理斎、景勝公御代、佐渡之代官職命之、会津エ御国替之刻ニ、米沢エ被遣新宿(二井宿)ニ被差置、其節、仙台勢(伊達政宗勢)押寄セ申処、首尾能為押返候付而、直江兼続被為感秩百五十石賜之、大坂両御陣ニ足軽御預供奉、元和八年(1622)七月致仕。」
その嫡男彦兵衛守次の略歴は、
「始ニ久左衛門忠守、元和八年七月家督、秩百五十石賜之、与板組ニ入。寛永五年十二月四日、御使番命之、同十年四月十七日、改而御使番二十人御仕立、其節居成命之、同年五月十七日加増百五十石賜之、総計三百石、同十八年七月廿六日卒ス。」
とあり、「仰欽録」に記載されている静田彦兵衛守次のことが記されている。
守次の父、守貞は、上杉謙信亡き後に跡目相続で争った「御館の乱」では、上杉景虎側について景勝側と戦い、弟4人を討死で失くしているが、戦後は直江兼続の与板組に入り、佐渡の代官を務めた。関ヶ原の戦いの時は、現在の高畠町二井宿で、伊達勢が攻め寄せた際、現在の高畠町二井宿筋地区にある静田橋付近で、守貞は、一番槍の活躍を行い、伊達勢を見事に押し返し、直江兼続から150石に加増してもらったことが書かれてある。
大阪の陣には二度参戦し、足軽を伴い出陣した。元和8年に引退した。その子の守次は、寛永5年12月、御使番に命じられた。寛永10年には150石の加増があり、300石を賜り、寛永18年に死去したと書かれてある。
守次には3人の息子があったが、嫡男の彦兵衛守正は、寛永18年9月12日に家督を相続し100石を賜わった。与板組に入り、弟の三十郎守重は50石を賜った。守正は、寛文7年8月23日、三姫君の御守役を命じられて、150石加増され、総計200石となり、延宝8年7月4日に引退した。
三姫とは、吉良上野介に嫁いだ上杉綱勝の妹(富子)である。その三姫の身の回りの仕事についている。
2男の権兵衛守重は、寛永18年9月12日、父守次の禄の内から50石を賜り、与板組に入った。御半領により25石となり、貞享2年9月に死去した。御半領とは、3代藩主の上杉綱勝に子がなく死去したことで、寛文4年に米沢藩が30万石から15万石に減らされたことをさす。
3男久右衛門盛房は、正保元年に、3人扶持1石をもらい土蔵番となり、明暦元年には加増されて2石となった。御半領により1人半2石5斗に減らされ、同10年8月17日に死去した。
守貞2男で、守次の弟光守は、守貞とともに大坂の陣に出陣したが、そこで戦死した。そのため、光守の弟である守広が跡を継ぎ、3人扶持8石を賜わり、組外御扶持方に入った。慶安3年2月23日、江戸御納戸頭を命じられている。そして新しく100石を賜ったが、御半領により50石になり、延宝3年9月8日、江戸で死去した。(以下、略)
と記述される。
三、静田家が記述された文献
成澤氏は、米沢日報元旦号で、静田氏の先祖と蛇との関わりが書かれた紀州(現在の和歌山県)徳川家の紀州藩士の神谷養勇軒(善右衛門)が七代藩主の徳川宗将に命じられて編纂した「新著聞集」の第三 報恩篇に見つけた。
(写真左=静田家が明治時代に発行した勅命神符、静田家所蔵)
その刊行は、寛延弐己巳(1749)3月吉旦で、それには、「上杉弾正大弼の家に、静田彦兵衛といふ人ありし、先祖、ある時他行せしに、童のあつまりて、白蛇を殺さんとせしを、やうやうにもらい求めて放てやりぬ。その帰りし路にて、夫婦、娘を誘ひつれ、兎ある様にて出むかひ、今日は御なさけにより、此子が命御助け、有がたふこそ候へと懇に物せし、彦兵衛おどろき、コハおもひよらずの事哉。人たがひならん。全く覚え待らず。されば白蛇を助けたまへる、それなん此子にておはしき。此悦びには、蛇の見入レある障を、除くやう教へ奉ん。此咒文を守り袋に入てかけさせたまへ。立所に験あるべし。一子相伝にせられよとて別にけり。それより今に家につたへられし。女の子もちたる人々は、件の符をこひ、袋に入れてかけさせ待りける。」と成澤氏は新聞に記載している。
明治41年(1908)11月に、米沢市立町の印刷業石田勘四郎が、「米沢古誌類纂」を印刷し刊行した。
(写真右=米沢市吾妻町の静田家敷地内に建つ蛇を祀る祠静田家提供)
それに採り上げられている文化6年(1804)に小幡忠明が著した「米沢地名選」に書かれた「静田氏墓」には、「柳町妙圓寺にあり、去れは柳町片側には蛇来ることなしと云、先祖は静田茂太とて京師の人なり、或時、童子等小蛇を殺さんと打擲するを助け捨てける、後、一異人有、路傍に拝す、茂太其故を問けるに、余は先の小蛇の母なり、貴君に助けらるるに依て恩謝するに物なし、吾に一種の蛇法あり、之を持ち玉ふ時は蛇に恐ることなしと云て、行方知らす去れり、今に静田家の蛇法を持時は蛇人を恐るること神妙なり」(区切りを加筆する)と記述されている。

(写真左=蛇除御守、静田家所蔵)
また、同じく天明年間(1781~88)ころに原田直久により著述された「米澤鹿子」巻之四には、「蛇守の説」という一項に、「当御家中、静田家蛇守の由来を尋ね聞に、静田の先祖は上方の人なり、其名は茂太と云ふ、或時、方原に出てけるに子共等蛇を見付て、多集蒐て既に殺さんとするを、茂太、幼子を賺して銭を與へ蛇を逃しける、其後、又出けるに忽然と異僧出て、茂太を呼て申けるは、我は蛇の王の使なり、此間、子蛇野に出て遊ひしに、児共群集て、既に死に及ふの時、貴殿の慈悲を以て危命を助りたる由、父母の悦ひ大方ならす、依て貴殿を王の住家へ呼来れとの命を受て此の如し、卒案内申すへし、斯々参られよと云、茂太、不思議に思ひ固く辞みけれとも、是非に参り給へと先に立て案内し窪たみに至り、之へ入り給へと云へとも、茂太恐れて猶、豫の体なるに、僧曰く、少しも恐しき事なし、広き道ありとて無理に突き入れられて、見れは、誠に広道にて一の宮殿に至りしに、待儲たる拳属附随ひ坐敷に請し、饗応種々筆にも書し難し、而して王夫婦立出謝禮の言終りて言ふ、何にても我等が相応なる御望あらは申され給ひ参らせんとなり、茂太、何故得(なにかな)と思案し左右国の為と成るへきは、毒蛇に喰ひ刺されし者の為にと蛇除の守を願ひしに、夫れは最も安き事なれ、迚(とても)一の守を授けけるとなり、此、静田、子細あつて越後に漂白し御家に奉仕けるとなり」と記述されている。(区切りを加筆)
まとめ
「仰欽録」から静田氏に関係する部分を抜き出して、調べてみた結果、書かれたのは上杉鷹山時代で、莅戸善政が書いたものではないかと推定した。
殿様と家臣のエピソードを通して、家臣の忠義心を涵養するような意図で書かれたものと思われる。「仰欽録」が上杉文書の中のどこかにあるのか、まだ未確認であるが、今後は莅戸善政の著作を優先して調べてみるつもりである。
それにしても、静田彦兵衛の切腹を覚悟の上で、厳しいことを殿に申すという姿勢は、若い2代藩主定勝にとって、さぞありがたかったことだろう。その様子がありありと伝わってきて感動した。
静田家の家系図を調べてみても分かるが、上杉家御年譜に書かれた各氏の初代については、余程の名門でなければ、それ以上遡ることが難しい。今回の静田氏についても初代の守貞がどこの出身なのか、糸口さえなくて全くの不明であり、全国の地名からも辿ることが出来なかった。全国に散らばる静田の姓を持つ家は、わずかに数十軒とされ、極めて特異な氏族である。
引用・参考文献
・石田勘四郎「米沢古誌類纂」(羽陽活版所 1908)
・中村忠雄「米沢古誌類纂」( 米沢事跡考、米府鹿の子、米沢地名選)(米沢古誌研究会 1974)
・「上杉家御年譜」二十三 上杉氏系図、外戚譜略、御家中諸士略系譜(1)(米沢温故会 1986)
・「上杉家御年譜」二十四 諸士略系譜(2)(米沢温故会 1986)